大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

京都地方裁判所 昭和54年(わ)1172号 判決 1981年4月06日

主文

被告人は無罪

理由

一、本件公訴事実は、

被告人は、京都市伏見区○○○○町××番地の×に所在する竹中・浅沼・宝共同企業体山村組杉本班作業員宿舎二階北側一〇畳の間にA(当時三七年)等とともに宿泊し、鉄筋工として稼働していたものであるが、昭和五四年九月二日午後一〇時二〇分ころ、同室において、被告人の所持金が紛失したことにつき右Aに疑いをかけるような言動に及んだところ、同人と口論になった上、同人が同室の壁際にあった同人のボストンバッグに歩み寄ったことから、同人が同バッグから果物ナイフを取り出して攻撃を仕掛けてくるのではないかと考え、とっさに機先を制して同人を殺害しようと決意し、同室内にあった刃体の長さ約二一・三センチメートルの刺身包丁で力まかせに同人の右胸部、左大腿部上部を数回突き刺し、よって、同人をして、同日午後一〇時二五分ころ、同宿舎東方約一〇メートルの通路において、右胸部刺創により失血死させて殺害したものである。

というのである。

右公訴事実中被告人が同記載の日時場所において刺身包丁をもってAの右胸部等を数回突き刺し、よって公訴事実記載の如く同人を殺害した点については、《証拠省略》によりこれを認めることができる。

二、しかしながら、取調済関係各証拠によれば、被告人は、昭和二〇年父B、母C子の第一子長男として出生し、両親に養育されて東京の高校へ進学したが、高校二年のころから怠学や家庭内での粗暴な振舞いが目立つようになり、又「自分が何もしていないのに皆がジロジロ見て何か監視されているようだ」と口走ったりして、医師から精神分裂病の疑いがある旨の指摘がなされるような状況となり、このことから結局二年で高校を中退し、その後、外国航路船の調理士、中華料理店々員などを転々とし、昭和四四年九月ころ、家出してからは沖仲仕や、日雇人夫として働き、昭和五三年三月ころ大阪市西成区に移り、簡易宿泊所に宿泊して日雇労務者として各地の工事現場を渡り歩き、昭和五四年八月一九日ころから、本件被害者のAの外D、Eらと共に本件現場に宿泊するようになったが、この間に、「自分の行く先々で自分の前に必ず百円玉が一日一回落ちている。」「仕事に出かけるとき送り迎えの車に乗るとき必ず百円玉が一個車の中か道の上に置いてある。何の意味か判らない。」、「酒を飲んで席を離れるとお金が少し減ったり、洗濯物が減ったり増えたりする。」、「食堂で皆と同じラーメンを注文しても自分のにだけきらいな梅干が入っており変だと思った。何かの信号ではないかと思ったがどおもよく判らずやはりいやがらせだろうと思った。」等というようなことを度々経験した旨述べるなど、関係妄想、被害妄想等の病的妄想体験の存在が窺えるうえに、本件現場に宿泊するようになってからも、被告人は常日頃誰れともつき合うことなく、押入れ内で寝起きするなど一人で居ることが多く、時々ピストルが欲しいとか、人生とはなどと訳の判らないことを口走ったり、仕事でもブツブツと文句をいうなど異常な行動がみられ、同室者の右Eはじめ周囲のものから変人視されていたのみならず、被告人自身も「何か注意されて見られているように感じたことがあり、しっかりしなくてはと思っていた。」、「実際にはかかってこないのに危害が加わってくる感じがしていた。」と述べていることなど、右病的妄想体験が引き続き存在していたと窺えること、本件当日、被告人は午前九時ころ、本件現場である前記作業員宿舎二階北側一〇畳の間の被告人が普段寝起きしている押入内でビールを飲み始め、間に仮眠をはさんで昼過ぎまでに四本を飲み、更に仮眠のあと午後四時三〇分ころから又飲み始め、途中午後五時三〇分から六時ころまでの間自転車で外出した間を除き、午後一〇時過ぎころまでの間に、夕食をとることもなくビール七本を飲酒し、本件犯行時被告人は相当な酩酊状態にあったこと、との各事実を認めることができ、更に、鑑定人浅尾博一作成の鑑定書及び同人に対する受命裁判官の尋問調書によれば、被告人に対する飲酒テストに並行して行なわれた脳波検査において、頻度は多くないとはいえ、血中アルコール濃度のピーク時に一致して、通常人の酩酊時には認められない鋭波、棘波、徐波等の脳の循環障害あるいは機能障害の兆候を示す異常波がみられ、このことからも被告人は飲酒酩酊時においては、その影響によって意識変容をおこしやすい状況にあると認められるうえに、前記鑑定人浅尾博一及び同大橋博司作成の両鑑定書は、ともに一致して、被告人においては、一定量をこえる飲酒の影響により、従前の妄想体験が増強され、又意思の抑制力の欠如を来たす可能性のあることを指摘している。

三、ところで、被告人は、本件に至る直前の自己の行動につき、押入内で朝から飲み始めて、数えて一一本めのビールも半分位になった午後一〇時すぎころに財布を出して持金を勘定したところ、五〇〇円札一枚、百円硬貨一一個、一〇円硬貨二、三個、五円硬貨一個があったこと、その金を押入内の布団のところにそのままにして便所へ行って帰って来てみると百円硬貨が一個不足しているように感じ勘定し直してみると、一〇個まとめておいた百円硬貨が九個になっており、やはり一枚無くなっていたこと、それで同室内にいたDに向って、誰か来たかと問うたが、Dは誰も来ないと答えたので、残りのビールを飲みながら又おかしいことが起り始めたと思っているうちに、再度便所に行きたくなり、それで、部屋にはDとAしかおらず、今度盗まれたらはっきりすると考え、九個になった百円硬貨の上に横にあった一個を重ねて一〇個にして二度めの便所に行ったこと、帰って来て調べてみると一〇個積んでいたのが九個になっており、やはり誰かに盗まれたものと考えてDに向って、「誰か来たか」と再度たずねたが、Dは返事せずに、代わりに被害者Aが被告人をにらみつけるようにして「何か無くなったんか」と答えたので、被告人は、「そんなこといってないやないか」というと、Aは「何を」といって、同室内北側壁際のテレビ横に置いてあった灰色ボストンバッグの方ヘサッと近寄ったこと、それを見て被告人は、そのバッグの中にAが長さ三〇センチメートル位の刃物を入れていたのを知っていたので、突嗟に、そのナイフで自分が刺されると感じ、それで、その前に刺さないと自分がやられると考えて、押入内に置いてあった刺身包丁を持って押入から飛び出して、こちらを振向いたAの右胸部等を突き刺すに至った旨供述する(右供述内容は、当初から一貫しているうえに、その供述経過、供述自体からも特に自己の精神の異常を装うための作為の形跡を認めることはできない。)が、当時の現場の状況からして、右のように、被告人が便所に行くごとに百円硬貨が一枚ずつ無くなるということ自体不合理で、そのうえ、本件現場や被告人の所持品中からは、五〇〇円札や一〇円、五円硬貨は発見されるも、百円硬貨はついに一枚も発見されるには至っていないこと、前記Dは、本件犯行時には同室内で寝入っており、被害者の「ギャッ」という悲鳴により初めて事件を知ったのであって、その前に被告人から「誰か来たか」との問いを受けて、それに対し応答したか否かについては何ら供述していないこと、当時隣室でテレビを見ていたEも、被害者の悲鳴が聞えるまでは何の物音も言い合いも聞えなかった旨供述していること、被害者Aは普段酒も飲まずおとなしい性質で、これまでに仲間と喧嘩したこともなく、特別に争いを好む性格ではなかったうえに、逃亡被告人の身であって、本件現場でもFとの偽名を名乗っていた位であって、このような些細なことで強いて争いを求めるとは考えにくいこと、等の事情に加え、前述のように被告人には過去において、本件と類似の百円硬貨にまつわる関係妄想、被害妄想が度々出現していることを併せ考えると、被告人が供述する右のような本件犯行に至る状況自体、被告人の妄想にもとづく誤認の可能性が高いだけでなく、仮りに誤認でなく被告人の供述するような状況のもとで被害者Aが同人のバッグの方へかけ寄ったということがあったとしても、そのようなAの行動自体を自己に対する直接的な加害行為に結びつけて考え、これを避けるにはAを殺害する外ないものと決意して、躊躇なく、鋭利な刺身包丁でもって被害者の右胸部等身体の枢要部を深く突き刺し、これを殺害するという行動自体、かつて本件と同様の包丁を使用しての傷害の前科があるとはいうものの、本件飯場へ来てからは平素無口でおとなしかった被告人の行動としては唐突で過激に過ぎ、その必然性、客観的合理性に乏しいうえに、被告人は犯行時ものすごい恐怖心に襲われた旨供述していること、犯行後も、致命傷を受け、ふらふらと階下に降りて行ったにすぎないと考えられる被害者の行動をとらえて、被害者が階下から鉄筋用の鉄棒を持って来て自分に対し反撃を加えに来るのではないかと考えて、兇器の刺身包丁を持ったまま被害者を執拗に追っていることなど関係妄想、被害妄想の存在を窺わせる異常な行動がみとめられること等の事情を併せ考えると、当時被告人が極度の関係妄想、被害妄想をいだいた状況にあったとの疑いが非常に高いといわなければならない。

四、これら、被告人の過去の経歴、妄想体験の内容・程度、及び犯行時の飲酒酩酊の程度、犯行の動機・態様の異常性、幻覚・妄想の程度等の諸事情に加え《証拠省略》を併せ考慮すれば、被告人は、高校二年のころ精神分裂病を発病し、本件当時は被害妄想・関係妄想・注視妄想等を抱く慢性精神分裂病の状態にあったうえに、これに大量の飲酒にもとづく酩酊が加わり、右妄想状態が増強されるとともに、抑制力の低下にもとづく衝動的な行為として本件犯行が敢行されたとみるのが相当であり、従って、被告人は本件犯行時、理非を弁別し、それに従って行動する能力の欠如した状態にあったものというべきである。

以上によれば、被告人の本件犯行は刑法三九条一項にいわゆる心神喪失の状況のもとになされたものと認めるのが相当であるから、刑事訴訟法三三六条前段により被告人に対して無罪の言渡をすることとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 吉田治正 裁判官 安原清蔵 水島和男)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例